ゆとりタイムス

ゆとり世代の筆者が日本や日本を取り巻く世界のことを書きます。

世代や性差を超えた対話を

こんにちは。新年が始まって間もないですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

本日のテーマはズバリ「対話」です。昨年から世界を賑わせている北朝鮮のミサイルと核実験問題ですが、この問題を取り上げるときに必ず出てくる言葉が2つあります。それは「対話」と「制裁」です。テレビや新聞の紙面上では、この2つの言葉が対になって議論されております。制裁は色々な種類があります。最もわかりやすいのは武力制裁ですね。他にも経済制裁などがあり漢字を見ればどういったものかイメージしやすいでしょう。一方で対話はどうでしょうか?対話とはもちろん人と人が話すことです。私達人間がいつも行っていることです。この、私達の日常的な行動や本能的でもある行動がなぜ武力制裁や経済制裁などの対義語になりうるのでしょうか。それは対話という行動に、とても深い思想と強い力があるのにほかなりません。

 

 考えてみれば、対話を通じた意思疏通を図ることができるのは人間だけです。もしかしたら、他の動物にもそれなりの言語があって意思疏通をしているのかもしれませんが、鳴き声や超音波そのもので相手を怒らせたりすることはできるのでしょうか?動物の場合は表情やジェスチャーで多くを語っている気がします。人間はそうではありません。明確な言語で相手に感情を伝えることができますし、それらを文字に残すこともできます。言葉を通じた対話は人間だけの特権なのです。

 

昨年読んだ本の中で、暉峻淑子著『対話する社会へ』という新書に感銘を受けました。著者は本のなかで「戦争の対義語は対話である」と述べていました。普通に考えてみれば、戦争の対義語は「平和」であるはずです。しかし、読み進めていく内に著者の考えに共感できました。そもそも、平和は対話する環境がなければ実現できません。逆に捉えると、戦争は対話を失った集団同士が起こすものです。再び対話が再開するまで争いは続きます。対話がある社会は活気に溢れていますし、人々が誰に対しても優しいという印象があります。

 

日本の社会では対話が交わされているでしょうか。この問いに対して私は、YESともNOとも言い難いです。対話が無いわけではないけども、活発には交わされてないのではないでしょうか。個人的な印象では、年齢の近い同性同士の対話は比較的多く見られます。もちろん、バカでくだらない話を毎回していることもあります。私もバカ話が結構好きで、友人と会うときはひたすら喋ってゲラゲラ笑っています。ですが、たまには真面目な話もします。また、人生の悩みなんかも話したりして意見を求めることができます。仲良い人達とお酒の場で語り合うことも立派な対話ですね。一方で、世代が離れた人や異性、友人以外の会社の同僚、上司といった人々と対話をする機会はあまりないように感じます。特に、世代が離れた人と対話をするなんてめんどくさい印象すらあります。異性とも口説きの場や恋バナ以外で色んなテーマで話し合うなんていうことは少ないでしょう。社会の中で対話をしないグループがあるということは、その間に摩擦が起きやすいと言えます。

 

今の日本で、若い世代と上の世代が対話をする場はどれくらいあるのでしょうか?恐らく皆無だと思われます。これにより、日本では世代間に大きな溝があるように見えます。年配の世代は常に「近頃の若いやつらは録でもない」と吐き捨て、若い人々も「ジジィ、ババァ共はうるせーんだよな」と心の中で思ってます。これが言葉だけで済むのなら良いのですが、社会保障費の支払い等の問題となると溝がさらに深まります。若い人は「なんでジジィババァの為に税金をたくさん使わないといけないんだ!」と感じてる人が多いのではないでしょうか?つまり、負担が多いという疑問です。ですが、団塊の世代以降の人にとってこの意見は納得いかないでしょう。「昭和の終戦から平成にかけて日本経済を押し上げたのは自分達だ」という自負があるはずです。今や年金の受給開始年齢が毎年上がっておりますが、これに若者が不満を持つのも理解できますし、年配の方々の社会保障費を確保するために受給開始が遅れる事情もよくわかります。ただし、上の世代が持っている不満と下の世代が抱いている不満を縮める機会が無いのです。

 

男女における溝も同じです。日本は先進国の中でも特に男女格差や男女の分断が多い国ではないでしょうか?私もいくつかの組織に属してきましたが、大抵の組織では「男はこの仕事で女はこの仕事」という役割分担があります。以前勤めていた会社ではお茶汲みは必ず女性の仕事でした。女性も当然のことのように受け止めていました。また、「男は働いて家族を守り、女は専業主婦として夫と家庭を支える」という極めて旧式の価値観に憧れている人にも多く出会いました。昨今叫ばれている性被害にしても、この問題をどう解決するかよりも「やったのか、やっていないかのか」の非難合戦のみが繰り広げられています。また、性被害を訴えた女性は周りの女性から非難されるというトンチンカンな状況すら起きています。

 

これらの世代間や男女間の溝はどうすれば縮めることができるのでしょうか?もちろん対話しかないのです。上の世代の人と今の状況を話し合い、お互いの妥協点を納得いくまで探しあうしかありません。対話を通じて相手の意見を聞き、それを踏まえた上で一段昇華さた意見を出せます。これをしないと、政策などにおいて若い人と年配の人との意見の相違がいつまでも見られるでしょう。また、人間と性という大きいテーマの中で男女それぞれの考えを交わすことも重要です。男には性欲というものがあります。この本能的な欲求が世界で多くの性被害を生み出していることは紛れもない事実です。一方で理性を保つことのできる男も多くいます。女性に関してもそうです。女性も月に一度来る月経により情緒不安定になる人や著しく体調を崩す人もいますし、全くもって気にならない人もいます。この男女の性差からくる違いを真剣に話すことが必要です。「オレは男だから女の事はわかんねー」と突き放す人は危険です。言葉があるのですから、それを通じて相手を理解しようとする姿勢が求められるのです。今の日本では男性と女性が性欲や月経のことを話すなんてタブーな事なのでしょう。しかし、このままでは社会が進歩しません。

 

私は、日本が先進国であるのならば、世代間にある溝を埋める機会や男女の性別に起因する問題を話し合う場が必須だと考えています。このような人間がお互いを理解する場が無いことは、とても先進的な国だとは思いません。世界の一部の地域で教育と人権意識の欠如に起因する、強烈な女性差別(キルギスの誘拐結婚やムスリム原理主義の女性教育反対等)と何ら変わらなく見えてしまいます。日本が先進的な国であるのなら、健全な人権意識と対話の場が多い社会が必須となります。なぜなら、対話をしなければ人間はわかりあえないという当たり前な事実があるからです。これから日本社会で年齢や性別を越えた多くの対話の場が増えることを強く望みます。