ゆとりタイムス

ゆとり世代の筆者が日本や日本を取り巻く世界のことを書きます。

平昌オリンピックのメダリストに見習いたい

こんにちは。

随分ご無沙汰になってしまいました。この間に韓国の平昌で冬季のオリンピックがありました。私はどちらかというと夏のオリンピックが好きですが、今回の冬季オリンピックは見入ってしまいました。スポーツという枠組みが国家の枠組みを超えた瞬間を何度も見ました。開催前は北朝鮮の参加や軍事パレード、アメリカの動向などが気になり、韓国は無事に開催できるか大丈夫かと心配しておりましたが、蓋を開ければ杞憂に終わりました。むしろ、私がこれまで見てきたオリンピックの中でもトップレベルで良い大会で、感動的な印象が非常に強かったです。

 

当初、私は平昌オリンピックに何も期待しておりませんでした。北朝鮮とアメリカの間でギクシャクしているし、韓国は半ば強引にアイスホッケーの南北合同チームを創るし、私が個人的に好きなロシアは国家の資格を持たないしと消極的な話題ばかりが目立っておりました。オリンピックは平和の祭典とよく言われますが、一時的で人工的に作られたものに過ぎないなと私自身も考えておりました。そのように、期待していなかったからだからこそかもしれませんが、選手たちの国家を超えた取り組みに心動かされました。

 

まずはなんといってもスピードスケートの小平奈緒選手です。ライバルである韓国の李相花と健闘を称えあい、両国境を掲げてリンクを回っている姿は私たちの胸を打ちました。なんだかんだいって韓国は良きライバルであり友人であると再認識させられました(だからこそ、憎しみも強くなるかもしれませんが)。これは自信を持って言えますが、韓国人と日本人は出会えばかなり仲良くなれます。お互い顔つきも似てますし、近い文化を持っておりますし、料理などに親しんでいる背景がありますので。むしろ、日韓の間をギクシャクさせているのは両国政府とマスメディアです。市民レベルでは既に仲良くやっております。今回の小平奈緒と李相花のシーンは日本人と韓国人の本来の姿を表したのです。リンクの上では最大のライバルであり、プライベートは親友である二人のお互いを信頼しきっているあり方は我々も見習わないといけません。

 

韓国関連では女子カーリングも非常に良かったです。日本は競技史上初のメダルを取得しました。私はこれまでずっとカーリングというスポーツは地味だな~と思っておりました。きっと、多くの方がそう思っているのではないでしょうか。ですが、今回の快挙で一気に脚光を浴びました。これは松岡修造さんが言っていたことですが、「この熱を一過性のものではなくて、長く燃やしていきたい」と述べておりました。これには私も納得で、日本のメディアはブームを作るのは得意ですが、作ったらハイ終わりという後追いを全くしません。既にカーリング関連の報道は無くなってきてますが、せっかくのスポーツをもっと支援すべきです。

本題とずれましたが、日本のカーリング女子選手陣は笑顔を絶やさず素敵でした。韓国との初戦で、試合中は会場の韓国ファンが韓国を応援しまくり完全にアウェーでしたが、勝利後はその応援団が大きな声援をくれたと語っていました。これはまさしく日本の選手達が笑顔で振る舞っていたからでしょう。対戦前の選手紹介の時にみんな弾ける笑顔で手を振ってました。韓国でも人気の藤澤選手は「アンニョンハセヨー」とカメラに向かって話しており、それが韓国人の心を捉えたと推測できます。日本選手団が帰国するときに、空港の韓国人職員とボランティアが藤澤選手と写真を撮りたくて藤澤選手の前に並んだという記事を読みましたが、あの短い間に韓国人ファンができたという証拠ですね。笑顔で明るく振る舞う人に悪い人はいない気がしますし、そのような振る舞いはいとも簡単に国境を超えた好意に繋がります。笑顔を絶やさず明るかったカーリングの選手たちに見習いたいものです。

 

そしてもう1つ、私がとても気になっていたことがあります。それは、ロシアの出場資格停止です。国家ぐるみのドーピングが明らかになり、IOCから出場停止処分が下されていました。そして、選手はあくまでも個人としてのみ出場が認められるという前代未聞な扱いでした。これはロシア人にとって屈辱的だったと考えられます。なんだかんだ歴史的に世界を二分した国ですし、国民は比較的愛国心が強いなと私自身も実感していた国であります。

それを最後に見事に打ち破ったのが女子フィギュアスケートザギトワとメドベージャワです。金メダルを取ったザギトワは15歳には見えないほど美しくて完璧な演技を見せてくれました。メドベージャワもさすが世界選手権女王でしたね。会場をこの二人の世界にしておりました。私は実際にロシアに行ったことがありますが、あの国の芸術センスには脱帽します。色のセンスやデザイン、バレエの細かくて優雅な動きなど、抜群の美しさを誇っております。今回のオリンピックでの二人の演技は「ロシアはここにあり!」というのを見せつけてくれました。

 

多くの方が熱狂した極寒のオリンピックも終わりました。今はまだメディアで引っ張りだこな選手たちですが、やがて熱は冷めるでしょう。大切なのはオリンピックの時だけでなくいつでもスポーツ選手を応援することです。そして、スポーツ選手たちに平和の祭典を見させてもらったあとは、一般市民が平和のために尽力すべきです。

右とか左とかよりも個人の意見を大切にしたい

こんにちは。寒い日が続きますね。昨年末にこのブログを始めてこれが4本目の記事です。スマホで通勤時間に文字を打っているのでスローペースです。このブログは政治的な事柄をテーマにすることが多いのですが、政治関連の話をすると必ず出てくる論があります。それは、「この人は右なのか左なのか」ということです。右はもちろん右翼の略称でで左は左翼ですね。世の中の政治に関するニュースや意見はほとんどこのカテゴリーに分けられております。しかし、これって本当に重要なことなのでしょうか?むしろ、右や左に区別することが対話を遠ざけることに繋がるのではないでしょうか。

 

大学の頃のとある授業で、日本の主要新聞を左や右で分けると、

産経→読売→ 朝日→毎日→東京

という順で右から左に大別されると習いました。読売と朝日の間に一線があり右と左を区切っていると習った記憶があります。この区分けは間違っておりませんし、多くの人が知っていることです。ですが、新聞の意見が右左に別れているといってその読者もきれいスッキリ分かれるというわけではないでしょう。もちろん、自分の意見に似た意見をもつ新聞を読むのは誰もがわかることでしょう。それだからといって、特定の新聞の読者を一まとめにして非難するのはおかしなことなのです。

 

選挙なんかもそうで、間接民主主義の日本では自分の意見に比較的近い政党に票を投じることになります。これが変に解釈されて○○党を支持してる人は○○という考えの持ち主だとか、△△党を支持してる人は△△の宗教を崇拝していると、表面的な判断が下されやすいです。他にも原発を稼働すべき人は右で反対の人は左という分類がなされております。私はこのような、人の中身を知る前に表面的な意見表明で判断することは良くないことだと考えています。結果的にその人が右とか左に判断されるような考えの持ち主だとしても個別の問題には様々なアプローチがあるはずだからです。

 

至極当たり前なことですが、人の数だけ考え方があります。それをキレイに二分類することは本来、不可能なはずなのです。例えば、私などはあまりアメリカに良いイメージを持たないですし、隣国と仲良くすべきだと常々考えておりますし、原発は持つべきじゃないと思います。一見、これは左翼の考え方だと多くの人は思うのではないでしょうか?ですが、実際には天皇陛下をとても敬っていたり、韓国の人々が抱く政治観を批判し韓国人学生から右翼認定されたりした過去も。そもそも、外交的にはロシアといかに距離を縮めるべきかと考えております。必ずしも左の人と意見が一緒なわけではありません。むしろ、左翼だなんて認定されたら嫌な気分になります。私は私であり、自分の意見をしっかりと持っているつもりだからです。

 

これからの多様性と発信力がカギとなる時代にいつまでも右翼や左翼という旧態依然の価値観を唱えるのはいかがなものでしょうか。そんなことよりも、個別の問題を周りの人たちと自由に論じて意見を昇華させることのほうが大切です。そういう意味では、人の意見が右とか左とかを考える前に、問題意識を抱くことのほうが遥かに大切です。今、日本を取り巻く様々な問題が起きております。それに対して関心をもつことが第一歩です。その上で自分なりに意見を持ち、誰かと対話をすることが極めて大事でしょう。もちろん、意見が真っ向から食い違うこともあります。しかし、それも対話の醍醐味です。対話は弁証法に通じますので対話を重ねるうちに意見がより洗練されます。

 

これからの日本を担うのは若い人たちです。若者はまず無関心からいち早く脱却しないといけません。未来の主役ですから。そして、周りの大人たちの意見に振り回されず、しっかり自分達の意見を発信するべきです。中年以上の世代の人々も同じ意見同士で対話をしたり異なる意見を持つ人と対話をして、日本の未来を本気で考えないといけません。

 

私的には右とか左というカテゴリー分けよりも「この国をどうやってより良い国にしていくか」という信念をしっかり持っているか否かを気にするべきです。より良い国やより良い社会を築こうとするときに意見が対立するのは当たり前です。でも、そこは対話を通じて深め合えばそれでよいのです。過去の知識の積み重ねを完全に踏襲することなく、参考にしながら自分の意見を確立する人が一人でも増えればいいなと思うこの頃です。

 

 

世代や性差を超えた対話を

こんにちは。新年が始まって間もないですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

本日のテーマはズバリ「対話」です。昨年から世界を賑わせている北朝鮮のミサイルと核実験問題ですが、この問題を取り上げるときに必ず出てくる言葉が2つあります。それは「対話」と「制裁」です。テレビや新聞の紙面上では、この2つの言葉が対になって議論されております。制裁は色々な種類があります。最もわかりやすいのは武力制裁ですね。他にも経済制裁などがあり漢字を見ればどういったものかイメージしやすいでしょう。一方で対話はどうでしょうか?対話とはもちろん人と人が話すことです。私達人間がいつも行っていることです。この、私達の日常的な行動や本能的でもある行動がなぜ武力制裁や経済制裁などの対義語になりうるのでしょうか。それは対話という行動に、とても深い思想と強い力があるのにほかなりません。

 

 考えてみれば、対話を通じた意思疏通を図ることができるのは人間だけです。もしかしたら、他の動物にもそれなりの言語があって意思疏通をしているのかもしれませんが、鳴き声や超音波そのもので相手を怒らせたりすることはできるのでしょうか?動物の場合は表情やジェスチャーで多くを語っている気がします。人間はそうではありません。明確な言語で相手に感情を伝えることができますし、それらを文字に残すこともできます。言葉を通じた対話は人間だけの特権なのです。

 

昨年読んだ本の中で、暉峻淑子著『対話する社会へ』という新書に感銘を受けました。著者は本のなかで「戦争の対義語は対話である」と述べていました。普通に考えてみれば、戦争の対義語は「平和」であるはずです。しかし、読み進めていく内に著者の考えに共感できました。そもそも、平和は対話する環境がなければ実現できません。逆に捉えると、戦争は対話を失った集団同士が起こすものです。再び対話が再開するまで争いは続きます。対話がある社会は活気に溢れていますし、人々が誰に対しても優しいという印象があります。

 

日本の社会では対話が交わされているでしょうか。この問いに対して私は、YESともNOとも言い難いです。対話が無いわけではないけども、活発には交わされてないのではないでしょうか。個人的な印象では、年齢の近い同性同士の対話は比較的多く見られます。もちろん、バカでくだらない話を毎回していることもあります。私もバカ話が結構好きで、友人と会うときはひたすら喋ってゲラゲラ笑っています。ですが、たまには真面目な話もします。また、人生の悩みなんかも話したりして意見を求めることができます。仲良い人達とお酒の場で語り合うことも立派な対話ですね。一方で、世代が離れた人や異性、友人以外の会社の同僚、上司といった人々と対話をする機会はあまりないように感じます。特に、世代が離れた人と対話をするなんてめんどくさい印象すらあります。異性とも口説きの場や恋バナ以外で色んなテーマで話し合うなんていうことは少ないでしょう。社会の中で対話をしないグループがあるということは、その間に摩擦が起きやすいと言えます。

 

今の日本で、若い世代と上の世代が対話をする場はどれくらいあるのでしょうか?恐らく皆無だと思われます。これにより、日本では世代間に大きな溝があるように見えます。年配の世代は常に「近頃の若いやつらは録でもない」と吐き捨て、若い人々も「ジジィ、ババァ共はうるせーんだよな」と心の中で思ってます。これが言葉だけで済むのなら良いのですが、社会保障費の支払い等の問題となると溝がさらに深まります。若い人は「なんでジジィババァの為に税金をたくさん使わないといけないんだ!」と感じてる人が多いのではないでしょうか?つまり、負担が多いという疑問です。ですが、団塊の世代以降の人にとってこの意見は納得いかないでしょう。「昭和の終戦から平成にかけて日本経済を押し上げたのは自分達だ」という自負があるはずです。今や年金の受給開始年齢が毎年上がっておりますが、これに若者が不満を持つのも理解できますし、年配の方々の社会保障費を確保するために受給開始が遅れる事情もよくわかります。ただし、上の世代が持っている不満と下の世代が抱いている不満を縮める機会が無いのです。

 

男女における溝も同じです。日本は先進国の中でも特に男女格差や男女の分断が多い国ではないでしょうか?私もいくつかの組織に属してきましたが、大抵の組織では「男はこの仕事で女はこの仕事」という役割分担があります。以前勤めていた会社ではお茶汲みは必ず女性の仕事でした。女性も当然のことのように受け止めていました。また、「男は働いて家族を守り、女は専業主婦として夫と家庭を支える」という極めて旧式の価値観に憧れている人にも多く出会いました。昨今叫ばれている性被害にしても、この問題をどう解決するかよりも「やったのか、やっていないかのか」の非難合戦のみが繰り広げられています。また、性被害を訴えた女性は周りの女性から非難されるというトンチンカンな状況すら起きています。

 

これらの世代間や男女間の溝はどうすれば縮めることができるのでしょうか?もちろん対話しかないのです。上の世代の人と今の状況を話し合い、お互いの妥協点を納得いくまで探しあうしかありません。対話を通じて相手の意見を聞き、それを踏まえた上で一段昇華さた意見を出せます。これをしないと、政策などにおいて若い人と年配の人との意見の相違がいつまでも見られるでしょう。また、人間と性という大きいテーマの中で男女それぞれの考えを交わすことも重要です。男には性欲というものがあります。この本能的な欲求が世界で多くの性被害を生み出していることは紛れもない事実です。一方で理性を保つことのできる男も多くいます。女性に関してもそうです。女性も月に一度来る月経により情緒不安定になる人や著しく体調を崩す人もいますし、全くもって気にならない人もいます。この男女の性差からくる違いを真剣に話すことが必要です。「オレは男だから女の事はわかんねー」と突き放す人は危険です。言葉があるのですから、それを通じて相手を理解しようとする姿勢が求められるのです。今の日本では男性と女性が性欲や月経のことを話すなんてタブーな事なのでしょう。しかし、このままでは社会が進歩しません。

 

私は、日本が先進国であるのならば、世代間にある溝を埋める機会や男女の性別に起因する問題を話し合う場が必須だと考えています。このような人間がお互いを理解する場が無いことは、とても先進的な国だとは思いません。世界の一部の地域で教育と人権意識の欠如に起因する、強烈な女性差別(キルギスの誘拐結婚やムスリム原理主義の女性教育反対等)と何ら変わらなく見えてしまいます。日本が先進的な国であるのなら、健全な人権意識と対話の場が多い社会が必須となります。なぜなら、対話をしなければ人間はわかりあえないという当たり前な事実があるからです。これから日本社会で年齢や性別を越えた多くの対話の場が増えることを強く望みます。

 

 

 

市民が中心の社会へ

明けましておめでとうございます。2018年が始まりました。今年は平成30年でもあり、節目の年です。

昨年は(も)色々なことがありました。日本と日本を取り巻く社会が大きく変化したように思われました。

毎年のお正月ムードが漂っていますが、他方で世界では様々なことが混沌とした様相を見せながら起きております。

 

「政治とか世界のこととか私には関係ない」と突き放すのは簡単です。しかし、残念ながら現在世界で起きていることは私達にとって関係ないことはないのです。むしろ、密接に結び付いております。

わかりやすいのは北朝鮮問題でしょう。結構な頻度で北朝鮮はミサイルを飛ばしたり核実験をしております。国のトップである金正恩はアメリカを敵視しており、いつでも臨戦態勢だと発言しております。それに対してアメリカもいつでも北朝鮮を潰す覚悟があると公言しております。

北朝鮮の隣国の韓国やヨーロッパ諸国は戦争が起きることに反対し、対話路線でなんとか道を切り開こうと努力しております。一方で日本は同盟国であるアメリカを支持し、より強固な制裁を加えることに賛成しております。北朝鮮から見て日本はどう見えるのでしょうか?敵にみられても全くおかしくありません。しかも、ミサイルを飛ばすなら遠く離れたアメリカ本土よりもアメリカ軍がいる日本を狙った方が失敗が少ないですし、ダメージを与えられます。米朝間のケンカにより、多くの日本人が犠牲になるなんてことも考えられるのです。他の政治問題もそうですが、世の中は密接に結び付いており私達の生活にまで影響を及ぼします。

 

こんな状況の中で私達は何をすれば良いのでしょうか??

当たり前ですが、状況を一気に打開することは不可能です。ですが、少しずつ意識から変えていくことはできます。その際にキーワードとなるのが「市民」です。

「市民」とは端的にいえば私達一人一人のことですね。普通に生活をしている人々のことです。この普通の人達の意識改革と連帯こそがこれからの社会を動かす力になるのです。

 

現在、多くの国で民主主義が採用されてます。民主主義は本来、民衆の代表として選ばれた者が民意を反映させながら政治を行うはずなのですが、実際はそうなっていないように見えます。むしろ、代表として選ばれた者が権力を使い、自分の好き勝手振る舞っているように見えます。特に、昨年のアメリカと日本はそんな印象が強かったです。多くの人が反対をしながらも次々と法案を可決させた日本の安部首相もそうですし、世界中からの大反対を受けながらもイェルサレムの首都宣言を行ったトランプ大統領もそうです。民意なんてもってのほかで、自分の信念のみで政治を行っているように見えます。そこに、私達一般人の姿はないのです。

 

もちろん、民意を汲まない代表者は批判されるべきですが、他方で市民一人一人が自分の意見を持ち、市民同士で意見交換をし、大きな力をつけていくことも大切です。

私の個人的な感覚ですが、日本はこの市民の意識と連帯が極めて弱いと思われます。友人や家族と政治の話やニュースの話をしている人はどのくらいいるのでしょうか?恐らく、皆無だと思われます。また、大学生で政治に関心がある人はどのくらいいるのでしょうか?むしろ、政治に関心がある人=変な人と見なされる方が多いかもしれません。ですから、選挙の投票率も下がるわけです。政治とは自分の世界とは別の世界で起きていることのように、多くの日本人は感じているのではないでしょうか?しかし、これでは一向に社会は良くなりませんし、権力者の都合のよいままに動かされます。誰も批判してこないわけですから、権力者は好き勝手やりやすいのです。

 

私達は本来誰でも自分の生まれた国や故郷や生活をしている場所を愛してます。そして、育ってきた地域や培ってきた文化を愛しています。そのような地域、文化、故郷、果ては国家を存続する一番の担い手は誰でしょうか?それはもちろん市民にほかなりません。名もなき市民が生活をしながら築いてきた文化や伝統、地域社会は簡単に壊されてはいけないはずです。そして、今よりもより良き文化や社会を築くのも市民なのです。「より良き社会」というとお堅いイメージがありますが、簡潔に表すと「もっと住みやすい場所をつくる」ということです。そんなに難しいテーマではありませんね。だけど、市民には力がありません。だから一人一人の弱い力を結集させ大きな力に変えていくわけです。

 

近年、安保法案反対や共謀罪反対の市民デモが徐々に増えてきています。とても良い兆候だと思います。今年は市民が老若男女関係なく連帯して大きな力になることを期待したいです。その為には世代を超えた対話と共感が必要です。私もブログ発信と同時に、多くの人と対話をする機会をもっと増やしたいです。そして、私達一人一人が主役の社会を時間を掛けてもよいので実現していきたいです。

 

 

日本の未来を憂う

こんにちは。初めまして。今日からゆとりタイムスを執筆する○○です。

今年の10月22日、日本では衆議院解散を受けた総選挙の投票日でした。

日本国総理大臣の安部首相は9月末に突如衆議院解散を打ち出し、わずか一ヶ月という急ピッチでの総選挙という運びになりました。

 

今年の政権は年間を通してバタバタであり、共謀罪、モリカケ、北朝鮮、沖縄という大きなテーマが常に新聞などのメディアを中心に取り巻いておりました。

それらの諸問題が何も解決がなされてない中での突然の解散に私は大きな疑問を抱いておりました。

蓋を開けてみれば自民党の圧勝。正直、何のための、誰のための選挙だったのか未だに謎です。

 

そして、選挙後の国会ではモリカケはほとんど話題に挙がらず、日本に落ちるかわからない北朝鮮のミサイル問題に躍起になり、小学校に機体の一部が落ちた沖縄の米軍問題は遠目で見るという状態になっております。

この状況を見て、私は今後の未来をとても憂いております。

日本の未来はどうなるでしょうか?

未来の世代はどのようにこの国で生きていくのでしょうか?

 

国を左右する大きな問題が起きているなかで、メディアは大相撲の外国人力士に目をつけ、相撲会から追い出しました。

他にも、芸能人の不倫問題などのスキャンダル事が最も話題になる報道状況です。

本当にそれらの事が大切なのでしょうか?芸能人が不倫をするよりも我が子が保育園に入れるかや、通ってる小学校の校庭にヘリコプターの機体の一部が落ちる方がよっぽど大問題なはずです。

 

今の日本で起きているこれらの政治問題は決して他人事でもなく、遠くで起きていることでもありません。

沖縄の問題も、原子力核兵器の問題も北朝鮮の問題にしても、どれも私達日本人の生存と自由を脅かす存在です。

今は無関心でいられるような距離と時間であっても、近い将来その距離と時間はぐっと縮まり、自分や自分の子孫を悩ます問題になるのです。

ですから、「わからない」とか「難しい」からと言って、突っぱねないで立ち止まって考えてほしいのです。

 

私も日本に生きる一若者として多くのことをこのブログを通じて訴えていきたいと考えてます。

私の意見が偏っていることは否めません。ですから是非とも読者の皆さんには健全な批判精神をもって私の意見を読んで欲しいですし、率直に批判を意見してもらっても構いません。

ただ、あくまでも私の信念として「自分達や自分の次の世代の為の良い日本の社会をつくりたい」という考えがあります。ここはぶれませんし、ぶれたらそれが最後でしょう。

 

今日から少しずつブログを更新していきます。主にスマートフォンで書いてるので多少の誤字があるかもしれませんが大目にみてもらえれば嬉しいです。